旧道が大混雑!!

Dsc08708 旧道、旧道って、もちろんこの時代は旧道ではなくメイン通りなんですが、これは、いま一緒に着々とプロジェクトを進めているseif企画さんというイベント会社さんからご紹介いただいた写真。当事務局は小冊子「ときぺでぃあ」の編纂をしたことがきっかけで、タイヘン多くの方からさまざまな情報をご紹介いただけるようになりました。昭和の時代『花の東金』のPRに繰り出した伝説のキャラバン隊の写真や当時を知ることのできるレアもののビデオ映像など、知れば知るほどご当地ネタは面白い。

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山辺郡印

Dsc04022_2 Yamabe   

八街で出土した「山辺郡印」。日本の文字文化のルーツを探ることの出来る貴重な資料として国の重要文化財に指定されているそうだ。佐倉の国立歴史民族博物館に保存されているとか。

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石碑発見・3

Dsc02665 「里の秋」(原題は「星月夜」)は昭和16年12月に成東出身の童謡作家 斉藤信夫によって作詞された。この歌は南方で戦う父の安否を気遣う子供の心情を描いたもので、これに海沼実氏が作曲し一部歌詞を修正、原題から「里の秋」と改めて昭和20年にラジオ放送された。それが瞬く間に全国的な大反響を生み永く愛唱されるようになった。碑は「里の秋」作詞40周年を記念して成東城跡公園内に建立された。

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石碑発見・2

Dsc02659_3 昭和33年、八街高校の校歌の作詞を依頼された詩人 白鳥省吾が、名産の落花生を讃えて即興で詩を作った。「いつ知らず 葉は茂り 花咲きて 人知れず 土に稔りぬ」この詩は八街高校の校内に歌碑として省吾の自筆で刻まれている。

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石碑発見・1

Dsc02574 国民宿舎「サンライズ九十九里」の裏手に「千恵子抄」の一節「九十九里の初夏」を記した詩碑がある。昭和9年、光太郎は妻、智恵子の病気療養のために九十九里を訪れた。以来、毎週東京から妻を見舞う為にここへ通った。碑には光太郎自筆で「千鳥と遊ぶ智恵子」の全文が刻まれている。

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あと1本

2 九十九里浜は房総半島の北東部に位置し、行部岬から太東岬までの弓状の砂浜海岸(長さ約60km)を指す。ハナシによれば、源頼朝の命で1里ごとに矢を立てていったところ99本に達したことから「九十九里」の呼称がついたらしく、「矢指が浦」の異称がある。「約60kmなら16里ではないか!」と言われそうだが、1里6町の旧制によると約16里はほぼ99里になるらしい。

九十九里町の隣、大網白里(おおあみしらさと)町の「白里」海岸も「百里」と言いたいけど1本足りないところから付いた名前とか…。

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掩体壕(エンタイゴー)?

Dsc06520_1 九十九里界隈は平野の中にあちこちにこんもりとした小山がある。ときにそれは古墳だったりhttp://tokigane-walker.cocolog-nifty.com/do/2006/01/post_f8cf.html、防空壕だったりと聞いてびっくりする。これは?と思ったら戦時中飛行機を格納するためにつくられたエンタイゴーというものらしい。

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東金 日吉神社大祭

Img6241622070001 7月の第3土曜日と日曜日、雄大な神輿が山車・屋台を遵えて、情緒豊かな「東金囃子」を奏でながら氏子9区域を巡幸する。

400年以上昔の話、東金ほか八つの村で水利権を巡る紛争が起きた。やがて争いは収拾したが、これは日吉神社の御神徳により導かれたものであったということで、以後この事に感謝しご法恩を示すために隔年ごとにこのお祭りを開催してきた。

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夏の催し物・2

_b9tetdj_b 1200年以上の歴史を誇る、一ノ宮の玉前神社。秋に行われる裸祭りが有名だが、年間を通じてさまざまな行事が行われている。7月14日に行われる「宮薙あんどん祭り」はとても幻想的な雰囲気で神楽なんか堪能できてしまう。(写真提供:上総の国一ノ宮 玉前神社0475(42)2711)

8月の満月の日を選んで浜辺で行われる「月見の宴」も別次元の空間が味わえる

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県庁所在地

「昔、大網に県庁があった。」なんて言うと誰も信じないかもしれない。が、ホントの話らしい。とは言っても、明治時代まで時はさかのぼるが…。

戊辰戦争で江戸幕府が滅び明治新政府の基礎が確立されたが、全国に幕府の諸藩が残されていたため、土地と人民を一旦朝廷にお返し(版籍奉還)し、それから改めて各藩の藩主が朝廷より「知事」として任命されることになった。

こうした流れの中で慶応4年7月、明治新政府から安房上総知県事として久留米藩士芝山典が任命された。明治元年12月には、現在の大網白里町宮谷の本国寺を知県事役所仮庁舎と定め、翌明治2年2月安房上総知県事の所轄地域が宮谷(みやざく)県となったのだそうだ。もっともこのとき房総にも館山県、佐倉県など24もの県が誕生したというが。

その後、明治4年7月の廃藩置県に伴い、同年11月に安房、上総全域が木更津県として統一されるに至り廃止、県庁も木更津に移った。明治6年(1873年)6月15日、木更津・印旛の両県を合併し千葉県が誕生する。

江戸から明治の移行期のたった4年間だけ、本当に県庁所在地だったのだ。県庁跡を示す石碑は今でも宮谷の本国寺近くに建っている。

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芥川龍之介と八街?

大正13年あの文豪、芥川龍之介が当時の八街村に降り立たった。取材で旅行することは珍しいと言われた芥川が何故、八街に来たか・・・。芥川龍之介は八街村で取材を行い、東京に戻り執筆を始めた。しかし途中で筆を折り、未完原稿だけが残されることになった。この原稿は筑摩書房「芥川龍之介全集」第6巻に収められており、八街町史にも全文が記載されていたという。

新聞記者の紀行文という設定で、大正13年の取材時を原点として20年前を振り返るように村の発展の様子を述べている。「浅井(八街)は美しい村である」から書き始め、村の位置を上空から立体的に描写している。流れるような美しい文。以下がその書き出しから一部である。


浅井は美しい村である。いや、今は村ではない。今上天皇の御即位と共に町制を布いたと云ふことである。同時に又美しい昔の景色も大半は失はれたと云ふことである。しかし今は問ふ所ではない。わたしの読者に紹介したいのは御大典以前--と云ふよりも寧ろ日露の戦役さへ始まらぬ以前の浅井村である。まだ電機の会社も興らず、製紙の工場も建たなかった二十年以前の浅井村である。
 浅井は××県倉橋郡の北半に位する村落である。倉橋郡の北半の地形はパレットに似てゐると思へば好い。パレットの指を入れる穴は周囲六里の矢矧沼であり、あとは昔浅井が原と呼ばれた麦畑の多い平野である。もし誰か飛行機の上から初夏の風の渡っている倉橋郡の北半を見下したとすれば、必ずこのパレットの上は大抵麦秋の黄いろの画の具の彩られていることを見出すであろう。又パレットの南の縁--かすかに矢矧沼の光っている向うは幾つも松山の緑いろの画の具を盛りあげてゐることを見出すであろう。最後にその松と麦とのパレットの縁なりに交ったあたりは東から西へ鉄道を一条、丁度パレット・ナイフの痕のやうに走らせてゐることをも見出すであろう。浅井はこの鉄道の沿線--矢矧沼の北岸に落ちた鳶いろの画の具の一雫である。
 倉橋郡の北半の平野の浅井が原と呼ばれたことは前に挙げた通りである。徳川幕府は二百年来、一つには馬を養ふため、一つには軍旅の足慣らしをするため、浅井が原の開墾を禁じてゐた。が明治の新政府はかう云ふ禁令を廃すると共に、開墾を奨励するつもりだったか、殆んど無代価も同様に民間へ土地を払下げた。昔は馬ばかり歩いていた平野に地主の生まれたのはこの時である。 爾来浅井は年々に藁屋根の数を加へ出した。と云っても勿論農家ばかりではない。松山のかげを土塀に囲った日蓮宗の寺をはじめ、鍛冶屋・散髪屋・荒物屋・縄暖簾を下げた一膳飯屋・天狗の看板を上げた煙草屋なども続々と軒を並べ出したのである。
 其処へ明治三十年の初夏、倉橋郡を横断する□□鉄道の開通したことは一層この美しい村の発展する機会を促進した。□□鉄道は県庁のある××市を浅井に繋いだばかりではない。同時に又彼是十五里を隔てた東京をも浅井に繋いだのである。その為に浅井は穂麦の間に白じろと信号柱の聳えた後、見る見る倉橋全郡の農産物を聚散する中心となり、明治三十五年頃にはもう其処此処に瓦屋根も見える一かどの大村落に変ってゐた。
 わたしの読者に紹介したいのは丁度この前後の浅井村である。新聞屋、宿屋、運送屋--さう云ふ店は建ち並んでも、入り日のさした往来にはまだ如何にも悠々とミノルカ種の鶏の餌を食んでゐた二十年前の浅井村である。

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キャンプ・カタカイ

かつて九十九里に米軍キャンプがあったと聞いた。終戦後、連合国軍に占領された日本は、各方面で軍国主義の排除と民主化への動きが急速に進んだ。アメリカ軍が上陸したのを始めとして県内各地に展開、日本軍の武装解除と軍事施設の接収などを行う。10月に千葉市に進駐し、県庁本館2階に入った部隊は2411月まで駐屯することになった。

 その間に米軍の訓練用のキャンプがここ九十九里に作られたのだそうだ。昭和2349日、アメリカ軍は高射砲の射撃訓練のため九十九里浜に対空射撃演習場を作った。場所は山武郡豊海町(九十九里町)の海岸で「キャンプ・カタカイ」と呼ばれていたという。高射砲は120mm砲と90mm砲が8門で、演習が始まるとその爆音で魚群も逃げてしまい、漁船の出漁は午前中だけに限られ、学校の教室では先生の声も聞こえない等、生活の障害となった。この高射砲射撃訓練は昭和325月まで続いたという。今では想像もつかない話である。

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ときがね建物遺産・2

Imgp0666_1 大網白里町の「熱海輪店」という自転車やさん。大正10年ころの竣工と言われ、昭和45年まで銀行として営業していた。当時の商用建築の手法で石造に見せているが木造住宅である。破風のデザインがカッコいい。

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ときがね建物遺産・1

Imgp0658 九十九里にある歯医者さんの建物。診療の合間に建物を見せてくださった。昭和7~8年の築だという。もちろん建物も先生も現役!

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八街市と空港

その昔、八街に国際空港を作るという話があったそうです。しかし、結局反対運動が強く、実現にはならなかったといいます。

中には「八街市に高速道路がないのはそのときの反対運動のせいだ」と言われることがありますが、その辺は定かではありません。なぜ、それほどまでに反対運動が強かったか、、。実は八街にはそれより更に昔、すでに空港があったというのです。

昭和16年、八街市の中心部から北東に位置する朝日区(文違、一区、二区を中心とした区域)と冨里市の十倉地区を含んだ300町歩あまりのところに陸軍八街空港が作られました。大室孟少佐を隊長とする100式司令部偵察隊が駐屯していました。基地に配属された偵察機は当時世界における最高性能の新鋭機。特にスピードにおいては郡を抜いており、南方の島々へ、また沖縄や硫黄島などの偵察に活躍したのです。

終戦後、閉鎖された八街飛行場は、食糧増産のため農地として開放されることになりました。「開墾すれば、2町歩までは無償で使える」とのお達しが出て、駐屯していた残存兵士がここへ定住して帰農しました。

昭和389月のある日、静かな農村地帯に戻っていた八街に、大きな衝撃が走りました。「新空港建設候補地に富里・八街」の新聞報道があったのです。新空港建設の背景には、当時の羽田空港が、狭くて危険な空港になりつつあったことが挙げられます。

これに対し八街町民の間からは「農業が続けられなくなる」、「一度は八街飛行場建設で畑を提供させられ、国策の犠牲となった。もう二度と犠牲になるのはゴメンだ」という声が湧き上がりました。そして富里村民と連携して、激しい空港反対運動をくり広げました。八街の国際空港建設問題は、昭和417月、政府が「建設予定地を成田市三里塚に変更する」ことを閣議決定したことで、反対運動も沈静化したのでした。

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不動塚古墳

kohun 成東から山武へ向かう道、板附公民館の火の見櫓の先に小安いちご園の直売所がある。その裏手にこんもりと小高い山。何の変哲もない田舎の風景だが、実はこの奥に「古墳」がある。竹の落葉を踏みながら左へ道なりに行くと不動塚古墳。全長63mの前方後円墳。周溝、周堤もよく残っている。1951年の日本大学の発掘調査により横穴式石室や壁画が確認され、鉄器やガラス球が発掘されたそうである。1400年余りものはるかイニシエのロマンが横たわっている麓で、イチゴ狩りのシーズンが始まった。

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東金・平 将門(たいらのまさかど)伝説

taira 平安時代に活躍した武将に平 将門という人物がいる。1000年以上たった今でも関東各地にその伝説が残されているが、ここ東金にもそうした話が残されていた。将門は今で言う茨城県の貴族の子として生まれる予定だった。母である桔梗(ききょう)の前が将門を懐妊したとき、父の良将(よしまさ)は占い師に「この子は大変賢い子ですが、大人になると天下を乱すことになるでしょう」と言われ、泣く泣く身重の妻を召使いと二人、船に乗せて逃がすことにしたという。船は何日も荒海を漂った後、現在の御門近くの浜辺に流れ着いた。

ある日、桔梗の前がお供の者と散歩をしていたときに陣痛が起こり、近くの川べりで男の子を出産した。その子が平 将門です。お供の者が川の水をせき止め、白い布で水をこして産湯がわりにしようとしていたところ、通りかかった漁師が、この様子を見てかわいそうに思い、自分の着ていた袖なしをぬいで赤ちゃんを包み、自分の家に連れて行って親切に世話をした。

市内の関内(せきうち)から殿廻(とのまわり)に向かう地域に産前橋という橋あり、「平 将門出生の地」と書いた小さな碑が立っている。その後に、将門の館があった場所を宮(みや)と呼ぶようになり、その周辺を殿廻と呼ぶようになったらしい。付近に布留川(ふるかわ)という苗字の家が多いのは、将門が自分の出生の故事にちなんで世話になった漁師一族にその姓をあたえたのだと言い伝えられる。

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九十九里と伊能忠敬

__2 九十九里町小関に「大日本沿岸輿地全図」で知られる伊能忠敬の生家がある。延亨21745年)上総の国山辺郡小関村(現九十九里町小関)に生まれた忠敬は17歳のとき佐原の名主で酒造・米穀商・船運業などを営んでいた伊能家の養子となり、衰退しかけた家業の再興を図った。第10代当主として名主・村方後見などを務める傍らで家業に励み、家産を養子に入ったときの3倍にまで増やした。その後、49歳で家業を長男に譲り、隠居して江戸へ渡り幕府天文方高橋至時(よしとき)に入門し西洋天文学・西洋数学・天文観測の勉学に没頭し、55歳から69歳まで測量の旅に出て全国を回る。「大日本沿岸輿地全図」の全225枚は忠敬の死後3年後に弟子たちの努力で完成し、幕府に提出したが、震災や火災でほとんど残っていないのが現状である。「伊能忠敬・測量の概要」によれば、忠敬が測量した15年間の測量距離は34913.01kmに及ぶ。井上ひさしの著による「4000万歩の男」という小説があるが、この距離でいうと5000万歩という計算になる。

50歳を過ぎてから新しい第2の人生を成功させた偉人のゆかりの地として、老後の生活や新しい生活を築いて行かれるために住まいを見つけられた方に希望を与えてくれる。

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東金・湖月堂のゆず羊羹

千葉から東金方面へほぼ一直線に道がある。慶長181613)年、東金辺鷹狩に向かう徳川家康の命を受けて、新道が作られた。時の佐倉城主・土井利勝は沿道97か村の村民を総動員して1015日の突貫工事で完成させたということから「提灯街道」とか「一夜街道」と呼ばれる。これが船橋~東金へつながる37kmに及ぶ「御成(おなり)街道」の起源である。

「御成街道」の建設と同時に、家康の宿泊兼休憩場所として「東金御殿」が作られた。敷地6700坪・部屋数40もの御殿は土地の農民総出で建立されたものと思われる。翌年正月、家康は「御成街道」を通って東金入りし、東金・九十九里方面で約1週間に及び鷹狩を楽しんだ。御殿は秀忠の時代と合わせて数回鷹狩の際に利用された後、1671年に取り壊された。その後「御成街道」は将軍の名代として鷹狩人が通ったり、九十九里の海産物を江戸に運んだり村民の生活路として利用され、現在の形になった。

Dsc01601 その御殿のあった敷地に八鶴(はっかく)湖という小さな湖があり、市民の憩いの場となっている。湖畔には県立東金高校がある。古い歴史と良き伝統に育まれ、御殿山と八鶴湖など山紫水明の景観にも恵まれたすばらしい環境で学ぶ高校生たちは実に羨ましい。

高校のある対岸に本漸寺という寺があり、その境内に家康が自ら蜜柑の木を植樹したという言い伝えがある。家康は温暖な東金の気候風土が、十男・頼宣(よりのぶ)ゆかりの紀州に相似ていると語り、柑橘の栽培を奨励したという。

東金に来たら老舗・湖月堂の銘菓『ゆず羊羹』を買って帰ることをお勧めしたい。

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伊藤左千夫生家

Photo_4成東町には小説『野菊の墓』で知られる歌人伊藤左千夫ゆかりの建物や歌碑がそこかしこにある。左千夫は18648月、今の殿台の農家に生まれた。父は、農業の傍らで上総道学の流れをくむこの地方でも優れた漢学者で、和歌にも通じていたという。

左千夫の生家は、殿台の成東町歴史民族資料館の裏に大切に保存されている。建物は約200年前後のもので平屋茅葺。間口8間・奥行6間の母屋。土蔵のほか茶室がある。敷地内には、1981年に映画化の記念に松田聖子が贈ったという記念樹があった。

 左千夫は17歳で上京し、正岡子規を師と仰いで歌人として本格的に活動を始めたのは36歳の時のこと。その後「馬酔木(あしび)」を経て、当時いまの山武町にいた歌人蕨眞(わらびしん)とともに歌壇「アララギ」を創始し、門下からは島木赤彦、齋藤茂吉などの大歌人を輩出させた。左千夫は50歳でこの世を去るまで歌人としての13年間に短歌以外にも多くの小説、随筆、写生文を残した。そのうちのひとつが『野菊の墓』である。

  左千夫は茶人としても有名で、同郷の歌友蕨眞(わらびしん)の協力を得て郷里の山武杉を使って本所茅場町の自宅内に一戸建ての茶室を設けた。「唯真閣」と呼ばれたその茶室は、左千夫の死後転々と移築され、昭和17年に現在の生家に移されたらしい。

t※注、これは売り物ではありません!!

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九十九里鉄道

Photo_1 今は東金市街地から海岸まで車を利用する人がほとんどだが、昔は海岸まで鉄道があったという。
松本清張の『九十九里浜』という小説の中に次のようなくだりがある。

『大網で乗り換えて次の東金で降りると九十九里鉄道の貧弱な駅が眼の前にあった。汚い廃車が待避線に棄てられたように据えられてある。駅の中の時刻表を見上げると、片貝行きは二時間も待たねばならなかった。

昭和31(1956)頃の光景である。(あくまでその頃の話であって、今はそんなことないのでご安心を
九十九里鉄道は『軌道』の名で1926年に開業し1961年に廃線になるまで勾配もない東金-上総片貝間8.6kmのほぼ直線を所要時間2426分で走り、海水浴シーズンにはあふれんばかりの客を運んだという。
それから40年以上もたった今もその名残は各所に見られ、かつての駅跡は駐輪場などとして面影を伺い知ることができる。
東金市内は住宅地に埋もれ、跡を辿るのは大変だが街の切れ掛かった辺り(旧堀上-家徳間)では路盤は用水路に転用されていた。東金市浄化センターより上総片貝側からはしっかりと路盤が残る区間もあり、容易に跡を追って行くことができる。家徳地区は線路跡が生活道路として利用されている。これを抜けると築堤がしっかり残った区間になり、東金市境界線まで続く。九十九里町に入ったところで線路跡はサイクリングロードとなり、片貝の町まで続いている。
当時の九十九里鉄道は今はバス会社としてその名を残し、軌道の終点上総片貝駅は現在、九十九里鉄道バスのバス転向場となりバス停表示も未だに「片貝駅」となっている。

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JR大網駅

Photo 大網駅の誕生は明治29年、房総鉄道が後の外房線になる蘇我駅~大網駅間を開通させた時までさかのぼる。その1年後に一ノ宮間が開通、さらに3年後東金線となる東金間が開通した。
詩人であり彫刻家でもあった高村光太郎が、精神に異常をきたした愛妻・智恵子の療養地として九十九里浜の真亀を選んだのは昭和9年のこと、光太郎は東京から毎週、智恵子を見舞うために通ったという(『智恵子抄』は九十九里が舞台で、現在も智恵子が住んだ家が保存されている)。
当時の大網駅は今の場所にはなく現在の場所より約600mほど東金よりの平地にその名残を見ることが出来る。当時は一旦旧大網駅まで乗り入れた列車はスイッチバックして一ノ宮方面まで向かった。旧大網駅からジャスコ『アミリー』方面に当時の一ノ宮方面へ行く線路跡がある。列車が電化された昭和47年になって現在の位置へ移動された訳だが、駅前のロータリーに立つとカーブして別れてゆく外房線と東金線のプラットホームが少し不自然な配置でおかれているのが分かる。
駅舎が高架になった理由は3
一ノ宮方面へのスイッチバック運転を解消する
大網から土気へ向かう勾配がきつすぎて列車の運行そのものが大変な難関だったの で電車を高架にして緩やかな勾配を作って運行しやすくする
天候によっては周辺が冠水するため
と言われ、山間大網から東京までのアクセスが飛躍的に改善されたのは平成2年に現在のJR京葉線が全線開通してから後、年々ダイヤ改正を重ねながら蘇我経由の直通電車が出来上がったからである。
都心などから訪れる人は、大網・東金が都心から思っていたよりも近い事に先ず驚く。電車でも大網駅から東京駅まで53(京葉線利用)で行けるのだから、都心にこれだけ近く、これだけ自然に触れることが出来る地域に住めるのは贅沢な話である。
そんな大網駅徒歩17分、土地129.45㎡・建物86.95㎡、平成7年築(4DK・駐車場有)の中古住宅が内・外リフォーム済みで1,280万円で売り出されたりするのだから、オドロキである。

 旧大網駅から永田方面へ行く旧線は、短絡線として残され貨物列車が大網~土気間の勾配を避け総武本線経由で東金を通り運転するためにしばらく利用されていた。その後短絡線を通過する貨物列車が廃止されたために短絡線も平成9(1997)12月廃止されました。

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