その昔、八街に国際空港を作るという話があったそうです。しかし、結局反対運動が強く、実現にはならなかったといいます。
中には「八街市に高速道路がないのはそのときの反対運動のせいだ」と言われることがありますが、その辺は定かではありません。なぜ、それほどまでに反対運動が強かったか、、。実は八街にはそれより更に昔、すでに空港があったというのです。
昭和16年、八街市の中心部から北東に位置する朝日区(文違、一区、二区を中心とした区域)と冨里市の十倉地区を含んだ300町歩あまりのところに陸軍八街空港が作られました。大室孟少佐を隊長とする100式司令部偵察隊が駐屯していました。基地に配属された偵察機は当時世界における最高性能の新鋭機。特にスピードにおいては郡を抜いており、南方の島々へ、また沖縄や硫黄島などの偵察に活躍したのです。
終戦後、閉鎖された八街飛行場は、食糧増産のため農地として開放されることになりました。「開墾すれば、2町歩までは無償で使える」とのお達しが出て、駐屯していた残存兵士がここへ定住して帰農しました。
昭和38年9月のある日、静かな農村地帯に戻っていた八街に、大きな衝撃が走りました。「新空港建設候補地に富里・八街」の新聞報道があったのです。新空港建設の背景には、当時の羽田空港が、狭くて危険な空港になりつつあったことが挙げられます。
これに対し八街町民の間からは「農業が続けられなくなる」、「一度は八街飛行場建設で畑を提供させられ、国策の犠牲となった。もう二度と犠牲になるのはゴメンだ」という声が湧き上がりました。そして富里村民と連携して、激しい空港反対運動をくり広げました。八街の国際空港建設問題は、昭和41年7月、政府が「建設予定地を成田市三里塚に変更する」ことを閣議決定したことで、反対運動も沈静化したのでした。
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